やり抜く。だから、進める
久保律子さん
コワーキングスペース『ミタカフェ』コーディネーター&お花屋さん
病院のレセプト業務、赤ペン先生、日本語教師、海外で営業部長、NPOの代表、そして今はお花屋さん。久保さんが関わった仕事は多岐に渡っています。さまざまな仕事をしながら、子育て、PTA活動、介護を行ってきた久保さんにお話しをお聞きしました。
父も母も先生だった
―――生まれも育ちも埼玉県旧浦和市(現・さいたま市浦和区)の浦和っ子とお聞きしたが、子ども時代のことを教えてください。
父が埼玉大学の英文学の教授で、大学近くにある官舎に家族3人で暮らしていました。私は一人っ子でしたが、官舎には毎日学生や先生たちが集っていました。みんなでご飯を食べることも多くて、父の同僚の先生や学生達と一緒に写った写真がたくさん残っています。母は、お花の先生で、洋裁も得意で、私の服はほとんど母が作ってくれました。
学生時代は、母から生け花を習ったり、小学生の時にモダンバレエで全国3位になりました。中学で、器械体操を始めて、高校時代に国体候補選手に選ばれました。私って体育会系なんですよ(笑)。高校で体操を辞めた後は、委員会活動をしましたね。勉強しないで好きなことばかりしていた私ですが、高校3年生の時には、流石にこのままだとまずいと思って、初めて父から受験英語を学びました。「医学」か「建築」を勉強したかったのですが、浪人はしたくなかったので、大好きな慶應義塾大学文学部に入学しました。2年の時に「図書館情報学科」を選択、この学科は理系の私がやりたい情報系の授業が受けられて、文献のキーワードをピックアップして索引を作るという実習も多く参加できました。
PTAの慣習をひっくり返した
―――大学卒業後、少ししてご結婚されたそうですが、早いご結婚ではないですか?子育て期のことも教えてください。
大学時代のテニスサークルの同期と24歳で結婚しました。私たち団塊の世代は、25歳で出遅れって言われていましたから、そんなに早い結婚でもないですね。お見合いの話も結構きていたんですよ。両親は私が長男と結婚して、向こうの家に嫁いでしまうのを避けたかったようで、三男の夫のところにお嫁に行くのには、反対はなかったですね。結婚後、娘が生まれましたが、全国を飛び回って仕事をしていた夫はほとんど家にいなくて、今でいうワンオペ育児でした。当時は蕨市に住んでいて、知り合いがほとんどいない中で育児が始まりました。ワンオペ育児でしたが、私は子どもが大好きで、育児はとっても楽しかったです。子育て時代は、娘の幼稚園の役員、小学校のPTA役員や、病院のレセプト業務のパート、通信教材の赤ペン先生などをしていました。
―――PTA活動時にエピソードがあるそうですね。
小学校のPTA役員の時に、PTAの慣習をひっくり返したんですよ。卒業式の後、夜に親と先生だけで飲み会をすることが慣習化していて、「子どものお祝いなのに、子どもを家に置いて親と先生だけで会を開くのはおかしい」と、仲間と話し合い、卒業式の後、昼間に子どもと親と先生が参加する会を開いて、先生も出し物をして欲しい!と決めたんです。結果、みんなから好評で、今でもそのやり方が続いていると聞いています。
育児業!好きなことをやろう
私は両親から沢山の愛情をもらい育ちましたが、母の方はいわゆる「子離れ」していなかった、と後で分かり、反面教師で私は娘を育てました。すこし可哀想だったかなとは思いますが、高校1年の時に留学をさせました 娘は自分で行きたい大学(上智大学)決め、自分で就職したい会社を決め、自分で将来の伴侶を決めて1999年に結婚しました。娘の結婚式が、私の子育て卒業式でした。娘の結婚式で泣かない親を初めて見たと友人から言われましたが、娘の育児は全てやりきったので、「これから自分の好きなことをしよう」、「これから日本語教師の仕事を存分にできる」ってワクワクで胸がいっぱいでしたよ。
今は、娘からのSOSが来たら助けますし、困っている時には、彼女の背中をそっと押してあげながら少し距離をあけながら見守っています。
―――日本語教師を約20年間されてきたとお聞きしました。日本語教師になるきっかけはありましたか?
20代の頃、華道の家元と一緒に北浦和にある国際交流基金日本語国際センターに来ている外国の方に、生け花など日本文化を教えに行きました。会が終わる頃に外国の方から日本語について質問されたのですが、全く答えられませんでした。そこで「外国の方からの日本語の質問に答えられるようになりたい」と思ったのが最初です。子育てが落ち着いてからカルチャーセンターで日本語教師の資格を取って、1995年から日本語を教え始めました。国も年代もさまざまな学生に日本語を教えましたね。父が大学の先生で、母もお花の先生だったことや、育った環境に学生が多かったことから、教えることに抵抗はなくて、私にとっては自然なことでした。学生から生活のことを相談されることも多かったです、今も連絡をくれる子がたくさんいます。
―――日本語教師として働いている時に、NPOシニアSOHO普及サロン三鷹(以下シニアSOHO三鷹)に参加して、二代目代表になられましたね。
大学の先輩から「三鷹で面白いことしている人がいるから、会ってみない?」と誘われて、シニアSOHO三鷹を訪ねました。パソコンの講習会を見学したのですが、日本語教師として日夜教えているプロからみて、気になる点ばかりの授業内容に腹が立ってきて、その場で当時代表の堀池さんに苦言したんですよ。堀池さんから「文句があるなら、会に入ってから言えよ」って言われて、何度か交流会に誘われて、NPOの会員になりました。
シニアSOHO三鷹の会員になってから、ホームページ講座を開いたり、仕事のできる女性会員を募ってNPO内の改革をしていきました。2004年に副代表兼事務局長になり、翌年の2005年に堀池さんの推薦で二代目の代表になりました。会社勤めをしたことがない女性が代表なんかできるわけない、凄く心配だ!とみんなが言っていたと後から聞きました。私も青天の霹靂でしたよ。経営や経理は全くの素人だったので、代表になってから死に物狂いで経営や経理の本を読みまくりました。行政や企業は男社会ですが、女性の代表に対して、思いの外好意的でした。仲間たちにも恵まれ、皆さんの協力があったから事業が継続できたと思います。
―――NPOの代表の仕事はどんなことをされたんですか?
代表の私がした仕事は「営業」でした。もちろん私、営業未経験ですよ。でも、会いたい人や会社に問い合わせると、大抵は会ってくれましたね。相手は、うちが仕事を欲しいのは重々承知だと思うので、話すのは「相手がうちと仕事をした時のメリット」です。「久保の営業は、相手の懐に飛び込む営業だ」とよく言われました。NPOの代表をしながら、友人の上海の会社で3年間営業部長をした経験も大きかったですね。上海では、日本語を教えに行っていた企業の社員に会ったり、現地の日本人の総経理(社長)や社員の方達と仲良くなったりと濃縮した3年間を過ごしました。
上海から帰国して、NPOの代表の仕事をしている時に、両親の介護が始まりました。父が亡くなった後、母が認知症になって、川越にある父の実家で暮らすのが困難になり、2017年にグループホームに入りました。
私は母にはずっと自宅で暮らして欲しいと願っていたのですが、段差のある実家の大掛かりなリフォームが必要になることや、母のかかりつけ医をはじめ友人からも、一人で今の母を自宅で介護するのは難しいとグループホームへの入所を勧められました。母がグループホームに入った後、私はとても落ち込んでしまい、身体も思うように動かなくなってしまいました。今のように動けるまでに2年かかりました。
迷いに迷って、決断の後は即行動へ
――――ご家族や仕事などに変化がある中でも、ご自身が決めたことを着々と進められているように思いますが、迷われたり、悩まれることもあるんですか?
え、そう見えますか?私は結構、長く迷うし、悩みますよ。悩んだ結果、大好きな事は3つ。「本・子ども・花」。
そして、「書店・保育園・花屋」の3つの仕事から探し始めました。今、週1仕事をしているお花屋さんに履歴書を出すまで、1年間迷いに迷いました。勤務しているお花屋さんはお客さんとして通っていて、お花のアレンジが素敵で、大好きだったんです。店に貼られている「年齢不問」と書かれた求人募集を見るたびに、応募しようか、どうしようかとずっと迷っていました。ある時浮かんできたのが、母の介護をしていた時、実家の庭にある花を手入れすると、とっても癒されたことだったんです。私は母からお花を教わって、師範の免許をとって、何回も作品展に出展していたことや、日常生活に花は欠かさなかったことを思い出したんですよね。そこで「お花屋さんで働きたい」という気持ちがむくむく芽生えて、今に至るって感じですね。
お花屋さんって、重労働ですよ。お花が入っている筒はどっしりしていて相当重いし、爪は草木染みたいになるし(笑)、外での立ち仕事だから暑い、寒いもダイレクトに体に響きますしね。仕事が終わって家に帰るとぐったり。仕事の翌日は、体を休めるためにできるだけゆっくり過ごすようにしています。体力的に厳しいですが、それでも花と携われる仕事は、楽しいですよ。先日、初めて配達に行きました。できる仕事がひとつずつ増えていくのは緊張感もあり、「私、まだまだできる!」と自信にもなっています。
いろいろな仕事や活動をしてきましたが、何でも熟考に熟考を重ね、やることが決まったら、即行動をしてきました。そして、行動したことは100%やり切りました。だから子育ても日本語教師もNPO代表でやってきたことに全く悔いはありません。
まだまだ勉強したい
――――久保さんがこれからやりたいことはありますか?
お花屋さんの先輩のようなアレンジが作れるようになりたいです。勤務の合間にアレンジサンプルを見たり、アレンジの様子を見るようにしています。フラワーアレンジメントの勉強もこれからぜひしたいですね。
まだまだ山ほどやりたい事はありますが、今は内緒です(笑)
もう私の年齢になったら、好きなことをドンドンしたらいいと思いますよ。
もし、働きたいシニアの方がいらっしゃったら、ぜひチャレンジして欲しいですね。世の中は人材不足ということもありますし、私みたいに70歳手前で新しい仕事に就けるかもしれません。まずは何事も「やってみる」ですね。
久保律子(くぼ・のりこ)さんプロフィール
1950年生まれ。埼玉県さいたま市(旧浦和市)出身。生まれも育ちも浦和という浦和っ子。小・中・高校を浦和で過ごす。慶應義塾大学文学部を卒業後、24歳で結婚、専業主婦、パート主婦を経て、日本語教師に。約20年間、日本語教師として活躍。その後NPOシニアSOHO普及サロン三鷹に関わり、副代表兼事務局長を経て、2005年二代目代表に抜擢される。NPOの代表をしながら上海の企業で営業部長を務めたり、両親の介護を担ってきた。現在は、コワーキングスペース「ミタカフェ」でコーディネーターとして起業相談業務を行いながら、実家のある川越で週一お花屋さんでアルバイトをして汗を流す。
NPOシニアSOHO普及サロン三鷹
https://www.svsoho.gr.jp/
ミタカフェ
https://mitacafe.co/
40歳の自分自身への「メッセージ」
子育てはとっても楽しいけど、自分のブラッシュアップも考えてみてね。
人生の大きな分岐点
娘の結婚。 子育て卒業!
人生で大切にしている「座右の銘」
あきらめない 好奇心を持ち続ける
執筆:渚いろは/写真:原光平/写真提供:久保様/取材協力:ヘルシーカフェのら